歌謡曲が輝いていたあの頃
─帰りたい場所“昭和”を鳴らした歌─
林 哲司 |
平成の世になって18年になるというのに、
昭和への回帰願望はより強くなっているようだ。
あの頃の生活しかり、風景しかり、
そして、歌についても、しかり。
あの頃の歌が流れてくると、自然と過ぎし時代に寄せられる心。
歌謡曲が輝いていた、あの“昭和”に――。
星現在、人々が求める“昭和”
シネコンの薄暗い通路を入って少し悔やんだ。
「やっぱりあっちを観るべきだったかなぁ……」
あっちとは「ALWAYS
三丁目の夕日」のことである。昭和を背景にした原作マンガはよく読んでいたので、映像化されたそれに抵抗があったのかもしれない。
それにしても異例の昭和ブームである。この映画しかり、清涼飲料水のラベルやボトルの復刻版、はたまたテーマパークとまではいわぬまでも、昭和の懐かしい店が連なるイベントスペースなどなど。なぜ人がこうも昭和という時代を求めているのか。
つつましくも、明日に素直に夢を抱いて暮らしていた時代。大人たちはきっとそんな通り過ぎた時代に、忘れ物をしてきたかのように振り返り、その時代を知らぬ子どもたちは、レトロなスロービートに妙な新しさを感じるのだろう。
歌は世につれ、世は歌につれ――という。いま時代の流れに比例したように、メロディーはより複雑になり、ことばは小節からあふれんばかりにダイレクトに感情を吐き出している。ものすごい速さで消費される歌の中から、きっと歌い継がれるものは生まれるだろう。
が、しかし、あの頃のように歌が人々の生活の中に浸透し、老若男女、誰もが口ずさむ歌が誕生する背景が現代にはない。だからこそボクらは、アルバムをめくるようにあの頃の曲を歌い、愛しむようにその時の自分を懐かしむ。そんな歌がボクにもいっぱいある。
納戸部屋でラジオから流れた「黒い花びら」
「黒い花びら」の歌声を初めて聞いたのはラジオからだった。昭和34年、10歳のボクは、もうわが家ではお払い箱になった、木製の卓上ラジオを枕元において「赤胴鈴之助」や「猿飛佐助」などのドラマを聴くのが日課だった。
その頃、大家族だったわが家では、祖父や両親、そして新婚の長男夫婦をのぞいて子どもたちは相部屋だった。ひとまわり歳の離れた次男とボクにあてがわれたのは納戸部屋。
もう読み終えたマンガ雑誌「少年」やプラモデルの戦闘機、そして古びたラジオ。みんなボクの宝物だった。布団を敷いた小スペースはまるっきり自分の世界で彩られていた。
ラジオから流れてきた歌声は、低音の、ちょっとかすれがかった男っぽい声質だった。♪くろ〜いい花びらぁ〜あ〜あ〜あ〜、しずかぁ〜あ〜にぃちった〜。
2〜3回聴くうちに、ボクはその出だしをすっかり憶えてしまった。まだ声変わりもしていない自分の声を、思いっきり大人ぶった声色に変え、上目づかいに姉たちの前で歌ったことを憶えている。
水原弘の顔を知ったのはそれから大分たってのこと。初めてテレビで顔を見たとき、ずい分と目鼻立ちがハッキリとして、唇のあつい人だなーと思った。まだ歌い手の顔よりも先に、歌そのものが耳元に届く時代だった。この歌はその年の記念すべき第一回レコード大賞に輝くことになるが、幼かった自分はレコード大賞そのものの存在すら知らなかった。
水原弘はその8年後の昭和42年、グループサウンズの波が押し寄せる中で「君こそわが命」でカムバックを果たした。この歌の最後のくだり、♪君こそォォォ〜いのち〜ィィィ〜も、今でも自然に口からこぼれるから当時の歌のインパクトは凄い。
新しい音楽の流れの中でも 大衆音楽然としていた歌謡曲
テレビの歌声が茶の間に届き始め、その中でも最も印象的だったのが昭和36年に坂本九が歌った「上を向いて歩こう」だった。いまや伝説となったNHK-TVの番組「夢であいましょう」から生まれた最大のヒット曲だ。その後「スキヤキ」というタイトルで全米No.1に輝いたことはいまや神話と化している。
小首をかしげた番組ホステス・中島弘子の「それでは皆さん、おやすみなさ〜い」という、最後のおきまりのセリフに促され、小学6年生だったボクはしぶしぶと床に就いたものだ。子どもは夜早く寝る――夜型の現代の生活環境など想像もつかなかった時代だった。
テレビの普及とともに始まったこの番組からは、“今月の歌”としてジェリー藤尾が歌った「遠くへ行きたい」(37年)、坂本九の「見上げてごらん夜の星を」(38年)、そして梓みちよが歌いレコード大賞に輝いた「こんにちわ赤ちゃん」(38年)が誕生している。
永六輔の詞、中村八大、いずみたくの紡ぎだす曲は、いままで日本の歌にはなかった垢抜けたポップスの香りがあった。電蓄にとってかわったステレオから流れる、その洗練されたメロディーは、いまでも若いアーティストたちによって取り上げられるほどだ。
ビートルズ旋風、ベンチャーズの初来日、テレビ番組での「勝ち抜きエレキ合戦」などをとおして、昭和40年の日本は、若者の間で空前のエレキブームに入った。そしてGSというグループサウンズが日本の音楽チャートを席捲するようになった。
どこの地方都市にも親たちが眉をひそめるのを尻目に、エレキを抱えバンドを組む若者たちがいた。ボクもそのひとり。丸坊主に詰襟の学生服ながら、エレキを背負い、自転車の荷台には大きなアンプ。そんな姿で仲間との練習にいそいそと出かけていったものだ。
演奏する曲目はビートルズ、ベンチャーズ、アストロノウツ、加山雄三、なんでもあれ、だった。昭和39年、越路吹雪が歌ったアダモのヒット曲「サン・トワ・マミー」は、ボクのお得意のナンバーだった。なぜシャンソンがエレキのナンバーになったかといえば、おなじみのポップスをエレキで演奏するだけで新しかったのだ。
当時の日本でのベンチャーズの人気はビートルズ以上で、ついには日本の歌手のためにも作品を手がけることになる。昭和41年の「二人の銀座」は、和泉雅子・山内賢のデュエットで大ヒット。日本人の“歌ごころ”のツボを得た彼らは、やがて渚ゆう子の「京都の恋」(45年)、欧陽菲菲の「雨の御堂筋」(46年)などのヒットを生み出し、歌謡界に新鮮なメロディーラインを送り込んだ。
このように歌謡曲の変貌は、新しい音楽の潮流に付かず離れず、微妙なバランスをとりながら日本の大衆音楽としての地位を確立していった。それはまだ歌謡曲が主流として絶大な支持を得ていた輝かしい時代だった。 ▼ ほかの記事も読む
林 哲司
1972年、チリ音楽祭をきっかけにシンガー&ソングライターとしてデビュー。以後、作曲家としての活動を中心に、1983年杉山清貴&オメガトライブ「サマー・サスピション」等で、東京国際音楽祭の国内・国際両部門において最優秀作曲賞、1984年にはベスト・コンポーザー賞に輝く。上田正樹「悲しい色やね」を筆頭に、1983年より5年連続で日本作曲大賞優秀作曲賞、1987年稲垣潤一「思い出のビーチクラブ」で同作曲大賞を受賞。これまでにアーティストに数多くの作品を提供、その数は1500曲にものぼる。その他、映画やテレビなどにも楽曲を提供。コメンテーター、エッセイストとしても活躍する。2005年秋開局のFM、Radio-fの代表に就任。
商品番号 |
070 080 |
価 格 |
¥2,520(税抜\2,400) |
タイトル |
歌謡曲ゴールデン・ヒット(東芝編) |
曲 目 |
(1)上を向いて歩こう/坂本
九*、(2)遠くへ行きたい/ジェリー藤尾*、(3)夜明けのスキャット/由紀さおり、(4)ゆうべの秘密/小川知子、(5)君こそわが命/水原
弘、(6)雨の御堂筋/欧陽菲菲、(7)京都の恋/渚
ゆう子、(8)女ひとり/デューク・エイセス、(9)終着駅/奥村チヨ、(10)天使の誘惑/黛 ジュン、(11)二人の銀座/和泉雅子・
山内 賢、(12)霧にむせぶ夜/黒木 憲、(13)黒い花びら/水原
弘*、(14)ざんげの値打ちもない/北原ミレイ、(15)抱擁/箱崎晋一朗、(16)北空港/桂 銀淑&浜
圭介、(17)アドロ/ADORO/グラシェラ・スサーナ、(18)雨のエアポート/欧陽菲菲、(19)手紙/由紀さおり、(20)見上げてごらん夜の星を/坂本
九*、(21)サン・トワ・マミー/越路吹雪、(22)愛の讃歌/越路吹雪
*=MONO |
その他 |
ステレオ録音とモノーラル録音が混在、Label:Toshiba |
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