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乱世にあって己の美学を貫き通した
知将・名将、真田幸村の生涯

高橋千劒破

◆◆今も不動の人気を誇る民衆のヒーロー

 真田幸村は、知将・名将として名高い。ほとんど勝ち目のない大坂の陣に参戦して、いったんは徳川家康の胆を冷やすほどの華々しい活躍をして散った。最後まで豊臣家に殉じ、豊臣家と共に滅んだことによって、多くの民衆の同情と共感を呼び、名将としての名を残すことになったのである。本CDで童門冬二さんは、真田家の歴史に触れつつ、関ヶ原の戦いに至る経緯の中で、真田父子兄弟の分裂を語り、また大坂冬・夏の陣における幸村の活躍と死を、判り易く語る。
 幸村は、永禄10(1567)年、真田昌幸の二男として甲府に生まれた。一歳ちがいの長男が信之(信幸)である。幸村というのは俗称で、正しくは信繁である。だが、信繁すなわち幸村の事績に関しては、大坂の陣での活躍を除けば、あまり判っていない。幸村を名将・知将として世に広めたのは、江戸時代の中期に書かれた軍記物語『真田三代記』である。三代記とはいえ、若いころからの幸村の活躍がその中心になっている。もちろん多くはフィクションだ。そして明治44(1911)年、立川文庫の『知謀真田幸村』によって、幸村人矧ま不動のものとなり現代に続く。立川文庫からその後も『猿飛佐助』『霧隠才蔵』『真田十勇士』等が次々に出され、ベストセラーとなった。幸村を語るとき欠かすことのできない十勇士は、すべて立川文庫が作り出した虚構の人物だ。とはいえ、情報収集やその分析、実行に長けた十勇士のごとき家来たちがいたことはまちがいない、と童門さんはいう。

◆◆激しい戦乱の世で幸村が辿った運命とは−

写真  真田家は、幸村の祖父幸隆のときに急浮上した北東信濃の豪族である。清和源氏滋野氏の一族海野氏の出で幸隆のとき信濃小県郡真田郷に拠って真田氏を称したという。だが真田氏の出自に関しては諸説があって、幸隆の前は判っていない。
 幸隆は武田信玄に仕え、幸村が7歳のときに幸隆が亡くなり、父昌幸が真田家を継いだ。昌幸も信玄に従い、側近の一人として活躍した。だが、信玄が倒れ、勝頼の代になって武田家が滅びると、真田家は越後の上杉家、小田原北条氏、また織田信長、徳川家康の間を渡り歩き、辛酸をなめつつ乱世を生きのびていく。やがて幸村は秀吉のもとで頭角を現わし、兄信之も家康の四天王の一人本多忠勝の娘と結婚、真田家は天下人とその政権最大の実力者と結び、揺るぎない地位を築いたかに見えた。しかし、秀吉の死によって状況は一変する。その後、関ヶ原から大坂の陣まで、真田家および幸村がどうしたか、ぜひCDをお聞きいただきたい。


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高橋千劒破(たかはしちはや)
文芸評論家、作家。1943年、東京生まれ。立教大学文学部卒業。「歴史読本」編集長を経て、執筆活動に2001年、『花鳥風月の日本史』で大衆文学研究賞受賞。著書に『歴史を動かした女たち』『名山の日本史』『江戸の旅人』など

商品番号078726
価 格¥2,310(税込)
タイトル大坂の陣、真田幸村“滅びの美学”
講 師童門冬二
内 容大坂の陣で死を恐れずに最後まで潔く戦った一人の武将・真田幸札彼を突き動かした美学とは何だったのか・・・。真田家の歴史を紐解きつつ、童門冬二さんが判り易い解説でお届けします。

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情報更新:2007/11/28

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